日本料理・懐石料理 求友亭

求友亭の歴史

明治13年11月23日に開業して以来、今日の盛業を見ることができますのは、一重に御客様の変わらぬご支援とご愛顧の賜物と厚く御礼申し上げます。
「入りて風情有り」「出づるに余韻を残す」という日本料亭の伝統を貫き、心尽しの懐石料理と洗練されたおもてなしで、お客様を風趣の別世界へお誘いします。

綾小路伯爵御筆。屋号許用の印として贈られる
明治13(1880)年
初代庄兵衛(岩吉)東京神楽坂の「求友亭」※の修行を了え、伊藤博文公爵、綾小路伯爵らの後援を得て、暖簾分けにてこの年11月23日現静岡市両替町二丁目に当「求友亭」を開業。
※夏目漱石「硝子戸の中」、邦枝完二「恋あやめ」の文中にある。
明治14(1881)年
明治15年版「鳳鳴新誌」に市内料理店番付のトップを飾る。
明治32(1899年)年
両替町より旧江尻町(常磐町一丁目の現在地)に土地を求め移転新築。
その後二代目庄兵衛(孝太郎)は県立静岡商業を卒業し、伊藤博文公の別邸大磯の滄浪閣にて修養、公の薫陶を受ける。
きく現掛川市兵藤家より嫁す。
※掛川市兵藤家は静岡県茶業会議所の祖といわれ趣味として笛をたしなむ。
 因みに天方家は遠州森町旧天方村天方城に発するものと考えられる。
牡丹の間
大正末期の離れ屋敷
大正3(1914)年
大正期に入ると二代目庄兵衛は、求友亭及び東京にて料理の修業に励みかつ、茶・花・書の三道に趣味をもちつつ、祖父からの美術品愛好の眼を開いて行き、日本画家徳田隣斎氏と親交があった。
その間東京銀座鍋町に妻きくと料亭「求友倶楽部」を開店し、尾上柴舟氏、岡本一平氏(岡本太郎画伯の父)等を顧客として盛業した。
その後大震災直前に静岡に戻り家業に専念する。
昭和2(1927)年
昭和天皇即位奉祝会の為、旧県立師範学校の校庭にて若き頃の府川耕作(清水玉川楼主人)等と共に夜を徹して祝宴の調理をする。
その後静岡県料理業組合長となる。
昭和天皇御大興の時
牡丹の間
昭和6(1931)年
この年の春、蔵元「日本盛」の案内にて満州(現中国)各地を歴訪する。
その後東京駿河台の杏雲堂病院に入院。
静養中、佐々簾平博士の元で博士のご指導により病人食の献立を研究する。
この間昭和初年より茶人伊藤先生の指導を得て、庭内に次々と離れ座敷の数々を作り、庭を整備していった。
特に「桂離宮」を愛し市内青木町にそれまでの数寄屋普請と作庭の粋を集め、簡素なる建物を成し、更に書院風の茶室を配した。
昭和15(1940)年
1月15日の静岡大火の為、現常磐町の求友亭は全焼。直ちに青木町宅を増築し、秋より営業再開。
昭和18(1943)年
戦時統制令による企業整備法に先立ちこの年の12月をもって休業に入る。
昭和20(1945)年
6月空襲にて青木町の求友亭焼失。
昭和21(1946)年
営業再開。
昭和24(1949)年
三代目庄兵衛が現はごろも缶詰(株)を円満退社し、初代庄兵衛没後、きくが女手一つでいくつかの災害にもめげず守ってきた求友亭を継承。
第一回の増改築をし、「桂」「楓」の間を建つ。
昭和32(1957)年
第二回の増築にかかり広間「松」「菊」「月」の間を建つ。
昭和59(1984)年
四代目・元太郎 東京にて5年間の修行を終え、入店、継承。
平成元(1989)年
店舗を全面改築。
平成26(2014)年 春
五代目・裕太郎 平成26年春、東京での5年間の修行を終え、入店。

現在に至る。
ページ上部へ